名前から思いついただけの駄洒落ですが、左右もちゃんと揃っています。
【思ひ絶えなむ】 「思ひ絶え」は動詞「思ひ絶ゆ」の連用形で、「想いをあきらめてしまおう」という意味です。
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな ちょっと差がつく 『百人一首講座』 【2002年5月20日配信】[No. 「思ひ絶えなむ」という強い決意の底から、「いふよしもがな」という、とうてい叶えられるはずもない哀願・・・その切なさが、胸にせまってくるようです。
【 投稿作品 】 ありがとうございました。
嬉しいにつけ悲しいにつけ泣き上戸憂きにたへぬは涙なりけり 083 鞠の皮筆毛の用にとりつくし山の奥にも鹿ぞなくなる 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる 鹿のなめし皮は蹴鞠に用いられ、同じく胸毛や尾毛は筆の材料として珍重されます。 でも、気を落とさないで。 小倉百人一首 六十三 左京大夫道雅(さきょうのだいふ・みちまさ、藤原道雅) 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな 後拾遺 ごしゅうい和歌集 750 今はただ思いを諦めましたとだけでも 人伝てではなく(じかに)言うすべがあればなあ。
7今こんと鳴きしばかりに女狐の穴にや夜の殿を待つらん 注:穴に女陰を暗喩。
前斎宮の結婚や降嫁は少ないですが、前例がないわけではありません。
私個人としては、どうしても愛娘(まなむすめ)をキズモノにされた父親の気持ちになって読んでしまうせいか、なんとも自業自得なチャラ男にしか見えず、共感・同情できる余地はほとんどないと思うが、まあ「平安朝のサイテー男」「平安失楽園(未遂事件)」としての「イタおも」な感じ(痛々しい面白さ)はあるかな~と思う一首である。
恋にやつれ、思い乱れ、ひそかに歌を贈るばかりです> 「 いまはもう、あなたさまのことをあきらめようと 心に決めました。
「密通」相手の 当子内親王には、以後、厳重な護衛が付き、 道雅が寄りつくすべもありません・・・「人づてならで、思ひ絶えなむ、と言ふ 由も」ない 道雅も辛かったでしょうが、身の置き所もなくなった内親王の人生も悲惨でした・・・事が露見した翌年、彼女は18歳の若さで出家させられ、世間とのつながりを断たれてしまいます。 当子に見張りの女房を付けて、道雅と逢わせないようにしました。
9忘りやるな行く末まではかたけれど命かぎりに金をかぎりに 055 滝の音は絶えて久しくなりぬるといふはいかなるかんばつのとし 滝の音はたえて久しく成りぬれど名こそ流れて尚聞えけれ 本歌の作者は「三船の才」を謳われた公任。 上の句は亀菊と義時がこと 100 百色の御歌のとんとおしまいにももしきやとは妙に出あつた 百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり 「妙に出あつた」は、妙な程うまく語呂が合ったとの意。
覚え方• 118• この時期訪れるにはいい季節かもしれませんね。
手切金 てぎりかね 取りて別れし女房の憂しと見し世ぞ今は恋しき すつぱりと思ひ切つたる黒髪のうしと見し世ぞ今は恋しき 存命 ながら へばまた信長や忍ばれん憂しと三好ぞ今は恋しき ながらへば又この頃は鰒をくふ うしと見し勤めもうもういやになり 注:「うし」と「もうもう」は縁語。
わが恋は袖やたもとをおしあてて忍ぶとすれど腹に出にけり 注:できちゃった。
その歌道執心ぶりを皮肉っています。 階級制度やしきたりの厳しかった昔の悲恋もそのひとつ。 その仲人は誰が務めたのかと訝ってみせた。
13春の旅紀の路大和路みちづれのわれても末にあはんとぞおもふ くだけても割れても定家百へ入れ 注:「くだけ」たのは48源重之。
1.君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな(藤原義孝) 2.しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで(平兼盛) あとは、桜の下で毎年、この歌を想いながら鑑賞してしまうので、3位に挙げます。
あまれども食ふべき物は惜しまれて身のいやしきにくやみべきかな 046 由良のとを渡る舟人菓子をたべお茶のかはりに塩水をのむ 由良のとをわたる舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋のみちかな 付ける蛇足も無し。
君がため永くもがなと弓削たもち 注:弓削は道鏡。
061] 小倉山荘では、2000年~2002年にかけて、『ちょっと差がつく百人一首講座』と題したメールマガジンを発行しておりました。 物や思ふと人の見る虫歯病み 忍ぶれど色に出にけりぬすみ酒 041 めせといふわか菜の声は立ちにけり人しれずこそ春になりしか 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 「めせ」は「召し上がれ」。
13左京大夫道雅(さきゃうのだいぶみちまさ 男性 992-1054 『後拾遺集』恋三・七五〇 今となってはもう 逢うことすらも許されないあなた ・・・そんなあなたへの想いを、私は断ち切ることにします ・・・あぁ、せめてその「もう忘れます。 。
願望を表わす上古語終助詞「もが」に、詠嘆の終助詞「な」が付いたもの。
蜀山人らしからぬ素人臭い作が幾つも存在するのは明らかですが、飄逸な秀詠・佳詠も少なくなく、天明狂歌の頓知横溢の才を十分に発揮した集となっており、蜀山先生を草葉の陰で嘆かせることはなかったと信じます。
この年の9月、伊勢神宮に奉仕する未婚の 皇女(そして当然、男を知らぬ処女)たる「 斎宮」の立場にあった、当時17歳の 当子内親王と、 道雅は忍ぶ仲になります・・・が、皇室の守り神たる伊勢の 斎宮を、 穢れた存在に 貶めるようなこの振る舞い(・・・こうした場合やはり、 斎宮にされてしまった内親王の立場より、 斎宮を出した家の 面子の方が、重いのですね・・・)が、彼女の父たる三条院の 逆鱗に触れ、 道雅は 勅勘(天皇 直々の お咎め)を 被ります(結局、これが彼の官位栄達の致命的障害となりました)。
百人一首の第54番歌の作者:儀同三司母と藤原道隆の孫にあたります。
当時は文芸的,教育的要素が強かったが,明治中期以降,現在のようなとなった。
村雨の露もまだひぬぎぼうしに霧立ちのぼる橋つめの秋 注:ぎぼうし 擬宝珠 は、欄干の柱頭の飾り。
恐るべき事は野夫医 やぶい に身を任す人の命の惜しくもあるかな 人の命惜しくはないかふぐと汁 039 徳利はよこにこけしに豆腐汁あまりてなどかさけのこひしき 浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき 豆腐汁を肴に酒を飲んでいたが、徳利は空になって横倒し。
注文した雁の料理がまだ来ない。 「人づてならで」で、人づてではなく、即ち、自ら直接にの意。 066 眼と口と耳と眉毛のなかりせばはなより外にしる人もなし もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし なかなかシュールな悪ふざけです。
19藤原道雅の恋の相手は、伊勢の斎宮をつとめた皇室の系統の女性でとても身分が高い人でした。 「とばかりを」の「と」は「思ひ絶えなむ」を引用する格助詞。
051 かくとだにえやはいぶきのさしも草なくば灸治はほくちなるらん かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃る思ひを 「ほくち 火口 」は火打石で起こした火をうつすもの。
その当子の元へ藤原道雅がひそかに通うようになり ます。
琴の音は絶えてさみしく聞こゆれば歌ぞひかれてなほ聞こえけれ 056 あらざらん未来のためのくりことに今一たびの逢ふこともがな あらざらむこの世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな 本歌に対する応答か。
嘘で塗り固めた末に、泥沼状態ですか? 尽くす馬鹿身より出だせる借銭の恋ぞつもりて淵にしづめる みなの川男と女の間には嘘つくばねの淵のありてふ 014 陸奥 みちのく のしのぶもぢもぢわがことを我ならなくになどとまぎらす 陸奥のしのぶ文字ずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに 小娘のうぶな媚態の風情でしょうか。 風流はただ何事も茶でくらす世をうぢ山と人はいふなり 茶と鹿で喜撰たびたび寝そびれる 江戸ならば深川辺に喜撰住み 009 衣通 そとほり の歌の流義にをのづからうつりにけりな女どしゆへ 花の色はうつりにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに 「流義」は流儀に同じ。 この時期訪れるにはいい季節かもしれませんね。
3・あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな 文句なしに大好き! ・たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする 命を絞るような激しい恋をしてみたいです。 077 焼つぎにやりなばよしやこの徳利われても末にあはんとぞ思ふ 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ 「焼つぎ」は割れた陶器を釉 うわぐすり で焼き付けて接合すること。
幼い頃に父親が失脚、さらに24~5歳の頃にこの歌に描かれた恋愛事件によって三条院の怒りを買い、生涯不遇でした。
人もをしとは亀菊が事と見え 注:亀菊は後鳥羽院の寵妃。
この歌は実話で、この歌の作者・藤原道雅と三条院の皇女・当 子(とうし)内親王との秘密の恋のエピソードが残されています。
入学・入社の季節から1カ月を過ぎましたが、入学されたり、部署が変わられた皆さんはもう新しい環境に慣れられたでしょうか? 新しい学校や職場が楽しくてしかたない、って人もいるでしょう。
世渡りに春の野に出て若菜摘む我が衣手に雪も恥かし 秋は露春は雪にて御衣がぬれ 016 行平は狐のまねをしられけり松としきけば今帰りこん 立ち別れ因幡の山の嶺におふるまつとし聞かば今帰りこむ 帰り「コン」に狐の鳴き声を掛けただけですね。 「入れずもあらなむ」の「なむ」は他に対する願望を表す終助詞。
【人づてならで】 「直接に」「人を間に立てずに」という意味になります。
「鳴くなる」を「無くなる」にすり替えたのは、蜀山の名作パロディ「ひとつ取りふたつ取りては焼いて食ふ鶉なくなる深草の里」の二番煎じ。
左京大夫道雅 さきょうのだいぶみちまさ 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな 意訳 今は「もう あなたのことはあきらめます」とだけでもいいから、人伝てではなく、直接、伝えたいのです。