孝明天皇の意志を継いだ明治天皇は崇徳院の御霊を京都へ帰還させ「白峯神宮」を創建しました。
この時期は怨霊鎮魂のため、の例に倣い崇徳を神として祀るべきとする意見が出されていたものの、実現には至っていなかった(『吉記』寿永元年6月21日条)。
二条親政の確立 [ ] 9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の)を出産するが、その誕生には「 世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『』)。
崇徳院を乗せた船は讃岐国松山の津(香川県坂出市高屋町)に到着しました。
鳥羽天皇と白河法皇は孫と祖父の関係であり、鳥羽天皇が成長した後も白河法皇に逆らうことはできませんでした。
この松山の津については,石碑などの手がかりも残っておらず,当時の松山郷の海岸付近といった漠然としたものでした。
天皇もしくは院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、は「已無先規、希代事歟、風波路非無其難、上下雖奇驚、不及是非」(『』3月16日条)と驚愕した。
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雲井御所跡(くもいごしょあと) 保元の乱に敗れ,讃岐の松山の津へ着船された当時,上皇の御所がまだ出来ていなかったため,国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられています。
崇徳上皇略年表 西暦 和暦 できごと 1119年 元永2年 鳥羽天皇の第一皇子として生まれる。
つまり近衛天皇の即位は、自らの政治権限が剥奪されるに等しい行為であり、断じてこれを容認することはできません。
『崇徳院怨霊の研究』、2001年。
当時は白河法皇が院政を行い政治の実権を握っていたため、生前の堀河天皇に政治の実権はもはやありませんでした。
そもそも、直島という名前自体、ここに立ち寄った崇徳天皇が島民の素直さに感動してつけた地名、という言い伝えがあります。 『愚管抄』には「白川殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨アリ。 はが権力を握るスタートといってもよい戦いだったのです。
18には、この歌をにした「崇徳院」が作られ、でもの高いである。 それまで、「」(朝廷の最高指導者)として日本の頂点に君臨してきた が亡くなると、次のの座をめぐって と が争います。
8月14日、後白河院は第一皇女・を新たに安徳天皇の准母として送り込み皇后とする(『吉記』『玉葉』)。
失意の後白河院に更なる追い討ちとなったのが、滋子の一周忌における法華八講の挙行を巡る紛糾である。
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日本国の大悪魔とならん」と叫び、自分の血で五部大乗経の奥に呪いの言葉を書きました。
三木近安は馬に乗り鼓ケ丘御所を襲いました。 法住寺南殿は信頼の邸宅を移築したものだったが、手狭で儀式に対応しにくいことから、2年()正月19日、新しく建て替えられた。
八条殿におはします」、同12月13日条に「上皇新造御所に御移徙。
実はその背景には、天皇だからこその事情があったのです。
父であるはの子ではなく、彼を次のに指名します。
崇徳院が剃髪して投降した背景には、で挙兵に失敗して出家したが、実権を失いはしたが自ら選んだ隠棲地ので手厚い待遇を受けて余生を送った先例があったとされる。 経宗・惟方は、藤原信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。
13後白河院には后妃が何人かいたが、遠方に連れて行ったり、桟敷で共に並んで行列を見物したりするのは、滋子に限られていた。
これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。
親平氏派の四条隆季・中山忠親は、平宗盛の意向に沿った院庁下文の草案を作成する(『玉葉』閏2月9日条)。
10月には謀叛人跡以外の地頭職設置が停止された(『吾妻鏡』11月24日条)。
俗に血の宮と称される理由です。 崇徳天皇には、鳥羽上皇の複雑な心境を見抜く洞察心が欠けていたように思います。
別名「煙の宮」ともいわれます。
宗盛の発言を受けて、後白河院は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。
親王如しくは政を専らにせん。