晋平は、後から作曲した『雲の蔭』の後奏五小節を、たいへん気に入りました (左図参照)。
に より• この不思議な歌について調べてみました。
ここまで書くと、多くの人は、 「この歌は、夭折した子供たちの魂に手向けた鎮魂歌である」 という説を思い浮かべるかもしれない。
誤植が全て訂正され、はずむリズムが強調してあるこの楽譜が一番レベルが高い。
私、池田小百合は、詩を作った雨情が狸の名前を登場させずに書いた事も驚きますが、晋平が詩を見て、それに気がついて作曲したであろう事にも驚きます。
この曲では、最後にコーダが付けられています。 野口家では、代々三日月に柏手を打って感謝とお願いごとをする風習があり、今も私はそれをやっています」。
「おむかえ」がなまって「おむかい」になったものです。
に より• 【晋平のアイディア】 「かぜかぜ ふくな」の所は、ピアノの伴奏がありません。
【平山美代子 中山梶子の歌は】 平山美代子、中山梶子が歌ったレコードがあります。
<『中山晋平童謡選曲集』第二集> 『中山晋平童謡選曲集』第二集(アポロ企画)では、楽譜の歌詞付けが「はなざかり おいらはうかれて」になっています。 「コドモノクニ」大正14年11月号より 岡本歸一画 コドモノクニ 1925年11月号 表紙 岡本歸一画 裏表紙 清水良雄画 【レコード初吹き込み】 歌手・平井英子(ビクター51821 A面「あめふり」B面「砂山」)、昭和6年7月。 『雨ふりお月』は『雨降りお月』の誤植でしょう。
6逆にベーと嫌がるしぐさをしたりしています。
十三年九月に死去のため、新戸籍には載っていない。
今日、私たちも聞き覚えた弾んだ歌い方で歌っています。
タイトルは平仮名で「しゃぼん玉」です。
【発表誌】 雑誌『コドモノクニ』 東京社 大正十三年 1924年)一月号に掲載。 中山卯郎著『中山晋平作品目録年譜』(豆の樹社)による)。
詩に深い理解が無ければできないことです。
【さまざまな楽譜の出版】 発表後にも、さまざまな楽譜が出版されています。
そこへ通りがかったカン太は自分がさしていた黒い大きなボロ傘をメイに差し出すのですがこのときカン太はサツキを「キミ」と呼びはしません。
出版社がわからないのでさがすのは絶望的です。
月、風、秋、すすき、雨・・・。 大正十年九月二十一日の東京日日新聞房総版に「童謠の講演會 廿五日木更津で」と題した予告記事があります。
」という間違いは、多くの出版楽譜で見かけます。
【『きさらつ』第七號に「證誠寺の狸囃」寄稿】 雨情は俚謡(ひなうた)を知り、それをもとにして童謡を創作しました。
私の童謡の会では、楽しいシャボン玉飛ばしの歌として元気に歌っています。
昔は、空を見て自分で予測していましたので、朝晴れていても、学校が終わる頃には雨が降る事がしばしばありました。
本物を見たいものです。
【歌ってみましょう】 それでは、文部省が変えて掲載した 1 2 で歌ってみましょう。
【『NHK うたのえほん』の扱い】 『NHK うたのえほん 3』 日本放送出版協会 1965年7月1日発行には、以下の楽譜「しゃぼんだま」が掲載されている。
に より• それまでは、レーベルと溝の間に、「白頭鳥」なら、50365Aと刻印があり、レコード番号とA、Bを刻印してあるのみ。 初出の詩は「お空の」で、初出の楽譜は「おそらに」となっている。
現・小田原市本町 から、大正十五年五月一日までの八年間小田原に住んでいました。
その後、再び札幌に出ますが、九月には妻子を故郷に帰らせ、雨情は室蘭に去ります。
また、楽譜を見ると、「はぎは」の部分だけ歌詞のアクセントにそって旋律が変えてあります。
二回目は少し弱く歌うと、こだまのように余韻を残す響きとなります。 に より• 和服のふところから曲譜の原稿を出して、「野口さんに諒解を得たいと思ったのですが、旅行中で見てもらえないのです。 この詩は圧倒的な支持を得て多くの出版物で使われています。
13讃美歌というより、せつない日本民謡風に曲をまとめた晋平ならではの作風のせいといえます。 端的であるから、予めの結果を定めようとしても愚かなことである。
表紙絵は右を参照。
存彌の研究活動からは、母つるを磯原の野口ヒロ・雅夫一族から守るというメッセージが感じられる。
墓碑には『野口英吉・妻つる』。