常に自害用の脇差と死出紐を持って歩き、仮に行を断念する時には腹を切るか、首をくくるかの覚悟で日々を送るのです」 ふと、師が指差したそこには、行の494日目に筆を走らせた色紙が置かれていた。 長野:中野• 『百日回峰行 ひゃくにちかいほうぎょう 』 大峯 について 奈良県大峰山で金峯山修験本宗から行われる。
4そして「この人がいたからこそ 自分は成長できた」と 心から感謝できるように なったのです。
それが行につながったのだと思います」. 慣用句として用いられる「四苦八苦」という言葉は、もともとは仏教の用語で、人間が生きるうえで思いどおりにならないことを指します。
(写真・湯澤 毅) 堂内を埋め尽くす人々の視線が、その人の所作に向けられている。
人の同情を買うようでは行者失格だと言い聞かせ、やっと帰ってきた。
とてもあたり前のことですが ちゃんと実践していると 周囲の人が驚くほど 光ある道へと 縁がつながっていきます。 「将来は世界中を駆け巡り、たくさんの友達をつなげて歩けるような信仰者になりたい。
32年後にに入り、さらに2年後に大行院に入る。
争いや対立から心の喜びは決して生まれない。
「そうだ、自分はまだ砂を噛む苦しみを味わったことがない」と。
大峯千日回峰行とは、標高差約1300mある寺から山頂まで往復48㎞を1000日にわたり続ける修行。
昔はふとんに入って8畳一間の家でよく話したね。 1991年5月3日より述べ4万8000キロを歩き、1999年9月3日に大峯千日回峰行を成満。 「途中でやめたくならなかったのか?」と問われると「その感覚は全くなかった」と断言。
18その入り口同士で対立するのは大変もったいない。 何事も 楽して短時間に 簡単に達人になる方法 などないのです。
右の足と左の足を交互に、歯を食いしばって前へ出してきた。
ところがたまたま知り合いを通じて「千日回峰行は比叡山ともう一つやっているところあるよ」教えてもらったんですね。
その先の夢があったからこそ、あんな難行を乗り越えられたのかなあと、今では思います。
毎朝8時30分に1719mの山頂に到着すると、そこで山小屋のおじさんがご飯を用意してくれる。 思い返してみても、このときが人生で一番辛かった。 シマジ 毎日走って通学していたんですか! わたしにはとても考えられません。
18それは山の行と言う。
お顔がじつに爽やかである。
そしてその功徳が廻りまわって自身の心を潤す。
しかし、千日回峰行をしていくうちにそれらの感情に囚われなくなったという。
それでたった一人、過酷な大自然のなかに身を置いていると、考えることがどんどん悪いほうへ流れてしまうときもある。 詳しくは「秋保マルシェ」で検索を。 ここでもし朝を迎えたら短刀で腹を切るしかない。
15総距離は4万8000kmにも達し、地球一周(約4万km)よりも長い。 行中、体重は毎日1キロずつ減り、水分不足のため血液がどろどろになります。
その歴史についてお伺いしたいのですが、そもそもなぜ山を歩くようになったのでしょうか? 塩沼亮潤大阿闍梨は、1999年、奈良県吉野の大峰山で、往復48キロ、高低差1300m以上の山道を1日16時間かけて、1000日間歩き続ける修行「」を成し遂げました。
その後ろ姿が人として大切な何かを私に教えてくれたし、まっすぐ人生を歩む決意もさせてくれた。
本堂に移り、本尊様が祀られている大きな壇の周りを三遍回り、その次に「朴の湯」という朴の葉のお茶を飲む儀式を終えてから、法要を行い出堂作法となります。
それをどんどん削いでいくんだ。 そして、とうとう小さな石に躓いて、闇のなかで宙を舞うように転げ、顔面から地面に叩きつけられた。 その発祥が今から約1300年前、役行者によって創立された奈良県吉野山にある金峯山寺というお寺なんですね。
誰かが切り開いた道には データがありますが 挑戦にはデータがありません。 もちろん私はその問いに迷わず首肯する自信がある。
そこで命からがら威嚇をして、その熊が山へ逃げてくれたから今の自分がいる。
・1987年5月6日 金峯山修験本宗管長五條順教に師事。
大峯千日回峰行とは、決死の覚悟でのぞむ荒業中の荒行で知られている。
さらに塩沼は、大阿闍梨の称号を得た後も、その偉業におごることなく、入門したての小僧のように生涯修行に励む事を決意。 夜寝ないででも話をしたい。
7なお午後12時40分以降のお申し込みについては、次回の護摩修法日に御祈祷させて頂きます。
でも、神さん仏さんのために頑張ろうね。
すべてが真理に通ずる道だ。
はじめた頃はまだ何も分からないよちよち歩きで、心のなかにプラスとマイナス、陰と陽がある。