電光石火とも言える、豊臣秀吉 羽柴秀吉 の素早い進軍に対して、明智勢は十分に迎撃態勢が取れず、先に高所も奪われ、兵力・布陣ともに不利な戦いを強いられました。 ところがどっこい、何度書状を送っても返事はありません。
これでは自分が何のためにやってきたのか…。 ここには信長を討った後悔も、秀吉に負けた悔いもなく、自分は精一杯やれるだけやったのだという、悟りを得たような光秀の心境が伺われます。
それでもあえて謀叛に踏み切ったのは、それが信長よりも上位の存在の意を汲んだ行動であると信じたからではないでしょうか。
数日内に近江は(・兄弟居城。
(注)その他、 「時は今雨が下 なる五月哉」とする句もありますが(京大付属図書館所蔵愛宕百韻写本)、これだと 「今は五月雨が降りしきる五月である」という、まったく謀反の意味とは関係がない句となります。
彼らは光秀に対してすぐに行動を起こせる場所にいたにもかかわらず、秀吉が戻ってくるまでなにもできずにいました。 日ごろから自己中心的であり、人を人と思わない残忍卑劣な信長の性格に忍耐強く耐えていたものを、 母を殺され、仕事も完璧にやっているのに無能だと人前で辱めを受け、降格までさせられ、しかも自分で経営してきた所領まで没収されたのです。
4光秀は義昭に仕える奉公衆(幕臣)となっていましたが、信長に有能ぶりを見込まれ、織田の家臣にもなり、義昭とのパイプ役を務めます。 いずれ(信長公記・惟任退治記・京大愛宕百韻写本)の句も「愛宕百韻」を写したものですが、現在のところどれが真実なのか証明がなされていません。
これで四国の和平が確保され、毛利討伐も成功目前となった…。
江戸時代から戦前まで信じられた「怨恨」説、戦後の研究から生まれた「野望」説 光秀再び信長公を恨む(岡田玉山『絵本太閤記』国立国会図書館デジタルコレクションより) では、いよいよ光秀が信長を討った動機について、諸説を検証してみましょう。
本能寺は現在、京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町にあり、境内には信長公廟もありますが、実はこの地は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で、本能寺の変後に移転したもので、実際に本能寺の変が起きた場所とは異なります。
【志摩2万石】 【領地合計332万石】 1570年 「飛騨国」の「姉小路頼綱」が信長に臣従• - で勢を牽制• 丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)• その対策として、光秀は明智方として戦ってくれる協力者を募りました。
16は北伊勢まで進出していた)に到達したところで合戦の情報が入り反転。 4年ほど前の 「矢上城攻め」でも、 信長の判断で相手を裏切り、 実母 (諸説アリ) を磔の上殺されています。
ところが、夜の闇に紛れて逃れる途上で、落ち武者狩りの土民に竹槍で襲われて重傷を負い、ひっそりと死を迎えました。
ここには僧籍にいた者などを除いて滅んだ。
現代では運命の分かれ目や正念場などを「天下分け目」という意味で「天王山」と言ったりしますが、山崎の戦いはこのほかにも故事をもとにした言葉・ことわざが生れています。
羽柴秀吉が 「播磨国」「但馬国」を平定• スポンサーリンク 本能寺の変 真実 光秀の行動 本能寺の変(6月2日)が起こる約1か月ほど前(4月下旬)、光秀は家康の武田(勝頼)征伐の功労として「接待(饗応)役」を信長より命じられます。
河内衆 津田正時:2000• 信長は元親の四国統一を認めていました。
長宗我部は光秀が長年にわたり、 戦ではなく平和的に解決したいとの事で、娘までも差し出し長宗我部との縁戚関係を結び、信長と和平の形で従順するところまでこぎ着けたのにもかかわらず、信長は 「長宗我部討伐令」を出してしまったのです。
そもそも、 を襲撃した際に、明智勢の雑兵は、 でも討つものと思っていたようで、戦ったあとに織田信長が相手だったとわかったような状況だった模様です。
信長もまた、さほど多くない近習や馬廻衆(うままわりしゅう)らとともに上洛して、本能寺で茶会を開き、準備が整い次第、中国に向かう手はずだったのです。
17いよいよ 信長様の天下統一が目前となる矢先に…。 また、本能寺の変が起きると、秀吉は戦っていた毛利氏と素早く講和を結び、光秀を討つべく現在の岡山市から京都までの約200kmを10日で走破する 「中国大返し」をやってのけます。
しかし朝倉氏は動かず、義昭は次に美濃を攻略した織田信長に支援を求めます。
京都・東山にある明智光秀の首塚への行き方・交通アクセスですが、地下鉄東西線「東山駅」から徒歩約5分と便利です。
これは天王山を奪還するための行動でしたが、明智軍にとってマイナスに働きます。
こうした信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀叛を起こしたと、江戸時代から語り継がれ、芝居などでも演じられて、戦前までそれが光秀の動機と信じられていました。 【摂津国35万石】• 信長は四国攻めを計画しますが、光秀にすれば 長宗我部を攻める事態は何としても避けたかったのです。
10隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。
その姿勢を見ても、 直前まで関係は良好だったと考えるべきでしょう。
これに対し戦後、光秀の動機は「怨恨」ではなく 「野望」であるとしたのが、歴史学者の高柳光寿(たかやなぎみつとし)氏でした。
織田信孝• それだけ人々の興味を引く戦いであったということでしょう。
軍勢が寺に迫る喧騒を、信長や小姓たちは下々の者の喧嘩かと思いますが、騒ぎが収まるどころか鬨(とき)の声が上がり、鉄砲が撃ち込まれるに及んで、敵襲であることを知りました。 本能寺で信長を討った6月2日から、12日の短い天下でした。
奥丹後の領主・一色氏は、明智光秀に味方したので、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態だった。
長年、領国経営に働いた 光秀以下、家臣達の苦労も一瞬にして水の泡となってしまったのです。
皆さんはどう考えますか? 参考文献:日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(洋泉社)他. 徳川家康黒幕説 信長の同盟者の家康は、かつて正室と長男が武田氏に内通している疑いを信長にかけられ、二人を死なせています。
美濃国(現、岐阜県)の生まれであることは間違いないようですが、生年は諸説あり。 『織田信長 天下一統の謎』学研〈歴史群像シリーズ〉、1989年、134頁。 旗立松(6代目) 戦後の経過 [ ] 翌日に勝龍寺城に入り体勢を整えた秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣し、堀隊はに光秀の後詰のために急遽出兵したの軍をで迎え撃ち撃破した。
9老の坂とは大枝(おおえ)山を指し、これは「酒呑童子」で有名な大江山のことだともいわれます。 また、羽柴秀吉は「織田信長と は生きていて、 に逃れた」と言うような「噂」を流したため、明智勢の雑兵らは、咎められることを恐れるなどして、士気も上がらなかったと言います。
信長を討ったことと、自分と同盟を結んでほしい旨をしたためて送りました。
しかし、祝宴の日(5月15~17日)家康に出した料理に 「魚が腐っている」と信長が大激怒し、 光秀が折檻されたことは有名です。
ただ日和見順慶という言葉は相当古くからあったようで、それはこの際における順慶の態度を表現している。
駐車場ですが、近隣のコインパーキングが満車の場合には、知恩院・古門の有料Pに止めると良いかと存じます。 この時すでに (信長討伐を)決心していたのでしょうか…。 なぜなら、信長の領地における兵役は、国によって異なるでしょうけれど、「1万石につき250人」以上であった可能性が高いからです。
11しかし、光秀がなぜ主君に謀叛(むほん)を起こしたのか、その動機は諸説あるもののいまだ明らかにされておらず、多くの謎に包まれています。 駿河は同盟者の 徳川家康(とくがわいえやす)に与え、重臣の 滝川一益(たきがわかずます)を上野に置いて関東の押さえとします。
信長の主要な家臣たちは各地へ散らばっていましたが、信長が討たれたとの知らせは数日中に日本中に広まったため、すぐに戻ってくるはず。
羽柴秀長• 黒田官兵衛• 光秀の天下は「三日天下」と比喩されるが、実際には本能寺の変の天正10年6月2日から山崎の戦いの同月13日であり、11日ないし12日間の期間であった。
そこから信長は、わずか30年で、勢力を20倍以上に拡大したのです。