ちょっと「ケンちゃん」ぽいのは時代の流行りもあるんだろうと思うんですが、動きも表情もほんとにいいんだこれが。 松谷みよ子『じょうちゃん』、2007年、 [ ]。 『センナじいとくま』童心社 1971• だれかをさがして歩きまわる小さな椅子の秘密とは? ミステリアスなお話で謎解きのような感覚で読めるのですが、背景には広島の原爆で失われた命、生き残った子どもの奇跡が埋め込まれています。
6それは「イナイ、イナイ、ドコニモイナイ・・・」とつぶやきながら歩き続けるいすでした。 新装版としてあり続けるのですが、子どもにも入りやすい、そして大人にも感動のあるお話。
それにめげずに一生懸命頑張りますが、全ては妹のため。
独立映画だったので、予算は掛けられずCGのような派手な特殊効果も使えなかった。
観る者は、直樹の発熱は椅子とのやりとりでのショックが原因だとわかっているけど、美智には自分の健康不安が払拭された直後の新たな不安となって淀んだままとなる。
『 松谷みよ子全エッセイ』全3巻 筑摩書房 1989 1990年代 [ ]• 少しはわかるけどさ、どうしてそんなに思いつめてしまったのだろう、って思いました。
同書で1961年、第8回、翌1962年、優良賞を受賞。
意思を持ったフォルクスワーゲンが大活躍をする「ラブバッグ」が好きな私としては「大切にしているとモノにも魂が宿る」というこの映画のポリシーには無条件に賛成だ。
それは、世界に誇れることだと思います。
みんなこうやって焼かれたんだ」(大意)って言う。
先月、『ふたりのイーダ』のタイトルがとある場所で目に止まり、読みたいなあ、読んだらブログに感想を書けたらいいなあって思っていました。
ある程度でも明瞭に記憶していらっしゃる方に、以下の記憶の物が、同作品の予告編(の冒頭)と思われるか否かお伺いしたいところです。
・ガラスが割れるような表現(映像?音?)が有った気も. 自分で書いていてふきだしています。
毎年8月に「ふたりのイーダ」を読み始めてから何年経つのかよく覚えていない。 でも、長い平和を享受する中で、人々の記憶から戦争の悲劇、戦争の愚かさ、戦争の悲惨さが失われてきているのではないでしょうか。 ・背景は黒か暗色だった感が有る。
14だからこそ余計に気持ちを注いで見てしまった。
そしてお母さんが仕事から戻ってきて、東京へ帰る日がやってきました。
でも担任の先生が思い出せない。
原爆の悲劇を語りつぐ名作ファンタジー・新装版 「イナイ、イナイ、ドコニモ……イナイ……。
そこには妹・ 原口佑子と同じくらいの背格好の折り畳み椅子がぽつんと置かれていた。 この椅子、イーダの椅子だったので、子供用の木の椅子...となっているのですが、なんとカタカタ動いてしかもしゃべるんですね。
8123• ・無人の椅子が映っていた気がする。
5200文字ちょいですぜ。
例えば恋心の描写、目線が、こどものものになってなくて、37歳のぼくのまま、同級生の女児に言動をしかけるので、変態っぽいのです。
そして、ゆう子のことを「イーダ」と呼び、ゆう子がこの館の娘だと主張します。
今回は、将来小4になる息子、そして現在2歳代の子供を持つ母として(妹のイーダちゃんは3歳)の立場も加わって読み進めてしまった。
ぼくがそのとき書いた掌編というのが、風俗で働く女性、だったんですね。 併読ね! めっちゃありますよ。
子どもたちも松谷みよ子さんの絵本に触れていましたので、何とも言えない気持ちになりました。
ペーシ。
(種々違和感がある事も承知しています。
これを 松山善三が大胆に脚色して1976年に映画化した。
『日本の伝説』をまとめて講談社から出し(1970年)、1985年に始めた『現代民話考』シリーズは、の収集の影響のもとに現代のや現代譚を収集した重要な仕事として、的に評価されている。 水の底で、椅子がイーダちゃんの名前を呼んでいたシーン。
ぼく今は、奇蹟を読み終え、日輪の翼があと少し、1973年のピンボールもあと少し、という状況で、併読時にありがちな、どれもが続きを読みたくてどれもえらべなぁぁいって状況です。
脚注 [ ] [] 注釈 [ ] 2015年3月11日閲覧。
直樹は小学四年、妹のゆう子は三歳。
これを名作と言わずしてなんと言おう。 やがて少年は妹を取り戻そうと、椅子に敵意をむき出しにして「お前のイーダは原爆で死んだんだ」と広島の写真を突きつけます。
リツ子という近所の娘が兄妹の世話を見ていた。
『いないいないばあ』 1967• 『あの世からのことづて』 1984 のち文庫• えええ、もう一回読みたいのに~。
椅子相手のとっくみあいみたいな難しい動きもがっつり。